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同じ失敗を繰り返さないために、今知れること【失敗百選】
似たような失敗を何度もしたくない、そんな人に読んでほしい実用書が中尾正之作「失敗百選 41の原因から未来の失敗を予測する」である。
これは「失敗学」という学問について、具体的な12の中分類と41の小分類に基づいた100個の失敗例を紹介した本になっている。中分類について15ページから引用したものを載せた。
1.材料の破壊 :脆性破壊や疲労破壊など破壊されたことによる事故
2.構造の破壊 :バランス不良などによる転倒、崩壊
3.構造の振動 :共振や流体振動などによる崩壊
4.想定外の外力 :強風や異常摩擦などの影響
5.想定外の制約 :逆流、動物、落下物などの乱入
6.火災・天災からの逃げ遅れ:被害者が増えてしまった原因
7.連鎖反応で拡大 :細菌繁殖などの事故拡大
8.冗長系の非作動 :緊急時用の対策(冗長系)が仕事しなかった
9.作業で手を抜く :入力や配管のミスが招いた惨事
10.設計で気を抜く :流用設計や自動制御ミスによる事故
11.個人や組織の怠慢 :赤信号無視、情報の伝達不良による事故
12.悪意の産物 :違法行為やテロによる被害など
失敗学とは、失敗例という知識を貯蓄運用することによって、同様の失敗をしないようにするため学問である。作者が工学博士ということもあり、一般的な倫理問題とは違う、工業的なミスについて考えている点が特長だ。
失敗学で挙げられる典型的な例として、タイタニック号の沈没がある。約1世紀前の事件であるが、同名の映画が大ヒットしたこともあり未だに記録に残っている。
多くの記事では、「記録達成のために速度を上げた」「不沈艦という慢心」「景観のための救命ボート不足(20隻)」「保険金詐欺」と心理的要因を中心に書かれている。
しかし、この本では「リベット(上図)の脆性破壊・脱落」「防水隔壁が上部甲板まで届いていなかったこと」の2点、設計の不具合・想定外を焦点にしる点が異なる。また救命ボート不足は大惨事となった原因と断じており、事件の原因と切り離している。
類例も紹介されている。この項目では1972年に北陸トンネル内で起こった、『”きたぐに”列車火災』が挙げられている。「トンネル内の換気・排煙施設が未実施だった」ことにより、一酸化炭素中毒で30名がなくなった事故である。
この事故をきっかけにして、日本のトンネルの各所に非常用の換気装置や非常口が徹底されるようになった。事故が起こって、調査して、記録して、対策する。この流れが失敗学である。
この後は3つの失敗事例について振り返っていく。
雪印乳業の集団中毒(連鎖反応で拡大:細菌繁殖)
二度あることは三度ある、この諺を失敗で体現してしまった企業が雪印乳業である。過去三度にわたる惨事は消費者を裏切り、売上高1兆円以上の大企業が5879億円(平成29年 雪印メグミルク株式会社 決算短信より)へと減少するきっかけを作ってしまった。
1回目の不祥事は1955年に起こった。1954年、八雲工場でベルト切断と停電が重なってしまい、一部の原料乳の殺菌処理が翌日へと遅れた。この結果原料乳内に溶血性ブドウ球菌が増殖し、児童ら1936名が食中毒症状を示した。
株式化してからわずか5年の出来事であり、気合で衛生管理をしていたが想定外の事故によってこのような結果を招いてしまった。初代社長である佐藤貢は「全社員に告ぐ」という文章を作り、新入社員へ配布した。
この後先手先手で対応措置をとった結果、雪印ブランドは大きく飛躍した。しかし、1976年、古臭い訓示を止めようとする動きから、「全社員に告ぐ」の配布はされなくなった。
時は流れ2000年3月31日、大樹工場で約3時間の停電が発生した。これによって黄色ブドウ球菌が増殖した。しかし加熱殺菌神話から殺菌後830袋を製造、異常がなかった450袋を出荷した。また仕損率0を達成するため、異常があった380袋を脱脂粉乳の原料として再利用した。
その結果が13420人の食中毒患者である。
さらに悪い話が続く。
1955年当時、雪印乳業は小さい会社であり気合に満ちていた。だからこそ瞬時の対応ができた。
2000年、雪印は年商1.2兆近く(今でいうと明治、旭硝子、日本航空、日本ハムあたり)であった。乳業のほかにも牛肉、冷凍食品、薬品など多角経営しており、乳製品の事故を部分最適の障害にならない対岸の火事ととらえていた。
ただし、雪印ブランドの力は相当なもので、この時の減益は1000億程度にとどまっている。
2002年、食中毒事件が起こってたった2年後に、今度は牛肉部門がやりやがった。30トンの輸入牛肉を国産牛肉と偽って、国に買い取らせた。当時BSE(狂牛病)の影響で国産牛肉を買い取っていた。これを雪印食品は悪用し、詐称した。
この事件後雪印食品は解体されており、雪印メグミルクにも牛肉部門は残っていない。
明石の歩道橋上の圧死(個人や組織の怠慢:コミュニケーション不足)
これは3者が事故を防げたのにもかかわらず、起こってしまった惨事である。この点は想定外であった雪印と異なる。
事件は2001年7月21日、花火大会のさなかに起こった。この祭りは人出13万人という大々的な夏祭りだ。しかし、会場に行くには特定の歩道橋を必ず渡らなければならない。つまり、終了直後は非常に混雑することは目に見えていた。
警備会社は入場制限を打診したが、明石警察署は見送っている。事件当時混雑を訴える110番通報が29本あったが、明石警察署はいずれも見逃している。
2者のコミュニケーションが取れなかった結果、歩道橋の密度が1㎡あたり11人となってしまった。1人頭0.09㎡、円柱に換算すると半径17cmである。
20時55分、押し合いの結果5人が転倒。その衝撃で雪崩となり階段下の人を圧迫、最終的に11人死亡247名負傷の大事故となった。
原因追及は主に明石警察署へと向かった。仮想演習をせず、警備計画書を流用。さらに110番通報や警備会社の打診をいずれも無視。言い訳する余地も薄い。雑踏対策に36名しか派遣していなかった一方、対暴走族に292名も割いていたとされる。
明石市にも原因はあった。前年の大晦日、55000人がこの歩道橋を通っていた。密度は最大で1㎡あたり13~15人となっていたとされる。しかし、明石市は全く検討していなかった。更には検討書を流用していたと報告している。
警備会社(現ジェイ・エス・エス)は、この事故の責任を冤罪と断じた。
これらの結果として3組織ともに叩かれ、民事・刑事訴訟が行われた。
この事件最大の問題は、仮想演習を全くしていなかった点である。互いに業務に慣れていたということ、過密状況でも事故が起こらなかったという安心感などによって「出たとこ勝負」になってしまった。また、このような圧死は1956年の新潟県弥彦神社の大事故など前例があり、危険を忘れていた影響も大きいと考える。
原子力系事件
この本だけでも、日本の原子力系事故について結構書かれている。件数が件数なだけに、日本の原子力関係の研究が遅れていることが示唆される。
事象2.2 美浜原発2号機の蒸気発生器一次冷却水漏れ(1991)[pp.75]
事象2.3 敦賀原発2号機の熱交換器から一次冷却水漏れ(1999)[pp.76]
(材料の破壊:疲労破壊)
事象4.3 浜岡原発のインコアモニタハウジングから漏洩(1988)[pp.89]
(材料の破壊:応力腐食割れ)
事象10.2 高速増殖原子炉「もんじゅ」のナトリウム漏れ(1995)[pp.132]
事象10.3 福島第二原発の再循環ポンプの損傷(1989)[pp.133]
(構造の振動:流体振動)
事象11.3 美浜原発2号機の化学体積制御系配管から漏洩(2000)[pp.138]
(構造の振動:キャビテーション)
事象37.3 JCOの臨界事故(1999)[pp.331]
(個人や組織の怠慢:安全装置解除)
事象39.1 原子力船「むつ」の放射線漏れ(1974)[pp.338]
(悪意の産物:企画変更の不作為)
「むつ」は、放射線(アルファ線)漏れと放射能(ウラン、一次冷却水)漏れを間違えて報道されたことによる二次被害であり、他の事故と事情過去となる。強いて「むつ」側に責任があるとすれば、開発が下火になっているところを強行して実験した点だ。
その一方で、弁護のしようもないのが、東海村で起こったJCOの臨界事故だ。この事故はルールを破る限度を過ぎたことによって起こった。
1993年、ステンレス製バケツに八酸化三ウランと硝酸を混ぜるという、掟破りの方法で作業効率を上げることに成功した。1995年、違法性を認識したうえで安全専門委員会はバケツ使用を許可。翌年には違法作業を明文化した裏マニュアルを作成している。
マニュアル作成後5年以上にわたり事故がなかったことから安心していたのか、更に楽をしようとした。臨界が起きる可能性があるとして定められた1バッチ(6.5l)を、40l(7バッチ)まとめて生産したのだ。その結果、沈殿槽の中で臨界状態になり436名被爆した。
これらの倫理観が欠ける原因、事故が多発する原因として日本の原子炉が米国を真似したものだからという説がある。米国は1979年のスリーマイル島原発事故(冗長系の非行動:待機系不良)以降でも原子炉を新規設計している。一方で、原子炉を真似するだけでなく新規設計もしなかった日本には2つの問題が生じる。1つは経験がなく、どの機構がどの効果を果たしているかを理解していないこと。2つは管理という役所仕事だけになり、設計者の使命がなくなることである。
その結果が福島第一原発事故だとすれば、事故の原因は東京電力及び官僚の怠慢ということになる。もしこれらの事故の対策を立てていたならば、想定外の地震や津波による事故は止められなくとも、放射線による二次被害は防げていた筈だ。
ただし、臨機応変に動いたことによって阻止に成功した事例もある。福島第二原子力発電所が一例だ。2011年3月11日の津波によってこちらも非常用発電機が死んでいた。異なる点は、圧力容器へ手動で注水するといった、残っていた機能を最大限生かし、なおかつその間に壊れたもの(海水ポンプやケーブルなど)を迅速に修理した点である。その結果、地震から90時間以内に4機すべての冷温停止に成功している。
この機構は第一原発にも当然搭載されていたのだが、処理が遅れたことで2号機、3号機が炉心損傷したと報告されている。
まとめ
失敗学とは、事故を「調査」「記録」「対策」する学問である。想定外を防ぐことは困難だ。しかし、想定外の原因を後で調べることはできる。そしてそれによって救うことのできた命は数多くある。
雪印は事故を二度引き起こしても復活した。福島第二原発は事故を最小限に抑えることができた。失敗は終わりではなく、次への軌跡となりうるのだ。
もし大きな失敗をしたとき、周りが失敗で悩んでいるときは、まずはノートに記録して、それから類例を調べてみればいい。
引用資料など
・中尾政之、「失敗百選 41の原因から未来の失敗を予測する」、森北出版(2005)
・失敗知識データベース、
・雪印メグミルク株式会社「平成29年度3月期 決算短信」、
・柳川範之、大木良子、「事業再生に関するケーススタディ 雪印乳業」(2004)、
・東京電力ホールディングス、「福島第一原子力発電所事故の経過と教訓」、
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