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【冲方丁「天地明察」_感想】天の理を探した”春海”の物語
『1年』を正確に求めることは難題です。また1日を決めた暦は祭事や神事、収益に大きく影響します。しかし1日でもずれたとしたら、その暦は使えなくなります。グレコリオ暦でも数千年後にずれが生じるとされ、今でもより正確な暦を研究している人たちがいます
日本の算術家が天体の観測と計算から新しい暦を探す物語、冲方丁作「天地明察」の紹介記事です。17世紀後半に実在した渋川春海がモデルとなっています。彼の行いは平安初期から続いていた宣明暦を排除し、和暦が精度よく修正され続けるきっかけとなりました。
目次
「天地明察」概容
登場人物
渋川春海
清和源氏ゆかりの畠山家の一族、御城の碁打ち衆”四家”(安井、本因坊、林、井上)の1つである安井家の長男です。二代目安井算哲として勝負碁を指しています。本職の碁打ちの他に、算術、暦術、測地などの技法を持っていました。
安井家長男という安定した基盤があるにも関わらず多くの技術を持っている裏には、上覧碁や指導碁への退屈・飽きがありました。春海という自称にも独自の道を歩みたい旨が込められています。
天地明察という小説は春海が金王八幡宮の絵馬を見ることから始まります。生涯の妻であるえんや和算の創設者である関孝和とは、絵馬に残された遺題をきっかけとして出会いました。
寛文元年(1661年)12月1日、酒井”雅楽頭”忠清老中(当時)の命により建部伝内・伊藤重孝と共に日本中の位置を観測する任務が与えられます。この任務が安井算哲ではなく春海として行った、最初の大任務となりました。建部・伊藤から夢を受け継ぎ、水戸・保科から敬意を示され、安藤・関などの協力をもらい、歴史に残る偉業=日本独自の暦を完成させました。
安藤有益
がっしりとした体格の、15歳年上の会津藩士です。江戸詰における出費把握を任されており、春海がお世話になっている会津藩隋一の算術家とされていました。
春海に金王八幡宮の絵馬を教えた人物で、その後も算術の友として関孝和に挑戦しようとする春海の相談にのっています。暦事業の担当として保科正之に推薦もしており、春海にとって算術・暦術の関係者とのつながりのきっかけとなる人物でした。
史実では1624年から1708年まで生きた和算家です。代表作として、難解な算術書を分かりやすくまとめた「竪亥録仮名抄」や日本で初めて魔方陣の解説した「奇偶方数」があります。
えん
金王八幡宮にて春海が出会った女性です。当時16~17歳と推測され、春海の6~7歳下になります。縁談も取り付けられていましたが、不勉強による武士の将来性のなさを危惧して断っています。その代わりとして、金王八幡宮へ行儀見習いとして派遣されていました。
春海が北極出地している間に縁談が上手くいき結婚しています。武士の中ではできた男でしたが先立たれ独り身に。数年後、改暦の用意が整った春海からプロポーズされ、再婚しています。
本名は『延』ですが、終始ひらがなで書かれています。
建部昌明・伊藤重孝
北極星の位置から今いる位置を測定する機密事業、北極出地の主要メンバーです。右筆の建部が隊長、御典医の伊藤が副長と、天文の術が一職業として成り立っていないから、得意な人を募った形になっています。
建部は齢62.既に退居してもおかしくない年齢であり、約2年の北極出地間に亡くなっています。彼が春海に託した願いは渾天儀の作成。天の星々を明らかにし、全ての動きを1個の球体として表現することでした。
伊藤は齢57。建部が病状の悪化で抜けた後、隊長として指揮していました。伊藤が春海に託した願いは日本独自の分野の作成。分野とは『星の一々を国土に当てはめる中国の占星思想』のことです。分野の成立には地図製作と天体観測が前提であり、中国の古典を頂点とする当時の学問体系に異を唱えることになります。
天をまとめた渾天儀と地を天に見立てた分野。2人の願いは日本独自の暦「大和暦」の作成時に大きく効いてきました。
水戸光国
最も春海の成果を喜び、最も悔やんだ人物が水戸光国です。出会いは眼が衰えた会津藩藩主に代わって春海を審査したことでした。渾天儀の話に食いつき、完成した暁に1つ貰うことを約束します。金箔と漆で処理した2つ目の渾天儀を受け取っています。
元の暦である授時暦から離れて大和暦に取り掛かる際にも、光国は協力を惜しみませんでした。西洋の天文学の詳細が記された洋書の漢訳版、『天経或問』を入手するために頼ることになります。これは日中以外の第三者の視点として、大和暦に大きく影響しました。
関孝和
僅かな時間で算術を解いてしまうことから解答さん、解くことだけを重視して遺題を残さないことから怪盗さんと呼ばれている鬼才です。金王八幡宮にて春海が忘れ物に気づくまでの僅か数分間で、7題を即解して去っていました。
噂は第一章から語られていましたが、関と春海が出会うのは最終章(398ページ)でした。なぜ予測が間違っていたか半年間分からなかった春海。関は北極出地の前に果たされた誤問を送り返します。その意図を薄々感じつつ関の家に春海が向かうと、頑張って怒鳴る関の姿がありました。
「よもや、授時暦そのものが誤っているとは、思いもよらなかったと、そう言うかッ!」
龍が吼えた。そう思った。脳天に雷火が落ちた様な衝撃だった。春海は、竜の息吹一つで自分が木っ端の如く宙を舞って灰燼と化すところを如実に想像した。
それこそが関孝和によう”誤問の出題”の真意だった。
402ページより引用。
引用部分は、実力を認めた上で、問題外のミスを犯した春海を戒める発言です。算術家の思いを汲んでもらうため、関は紙の束を送ります。中身は授時暦に対するあらゆる考察でした。
天性の孤独の人物が、実力を認めた人物へと己の成果を託します。春海らの行動は算術家の成果を奪う行為でしたが、関は天理を解かせるためにこれを許しました。
春海にとって関は、算術家として憧れの人物であり喪を明けされてくれた恩人でもあります。改暦後、多くの算術家が成果を奪った春海を罵る中、関は届かなかった天を仰いでいました。
絵馬に残された遺題
からん、ころん。作品中に何度か出てきた擬音は、金王八幡宮の算額絵馬がぶつかる音でした。礒村塾のメンバーや関に出会ったきっかけとなったこの絵馬には1つの風習がありました。
絵馬に算術の問い=遺題を書き掲載する。そして別の人が解を絵馬に書く。もし解答者の解が合っていれば「明察」と書かれ、回答者は新たな遺題を掲載する。書籍で発行することや塾に掲載することが難しい時代において、庶民が算術を学び試せる絶好の手段でした。
他にも術理を細かに記した絵馬、初めから答えを併記した絵馬もあります。算額の群れに己の願いを載せて、算術を記し神に捧げる。人々の思いが詰まった結晶、個々が重なって成り立つ理の比喩として使用されていたと考えます。
術理のない、まちがった問い
北極出地を前に春海が関に挑戦した題は無術でした。関へのあこがれからこだわった値が現実に存在しない図形を生み出してしまったのです。建部や伊藤にまで見事な誤謬と評されています
授時暦による蝕の予測を間違ったのち、関が春海に出した問いもまた無術でした。元由来の正確な暦である授時暦にこだわった結果、解答が間違っていました。
まとめ:天地明察
「ときに惑い星などと呼ばれますがねえ。それは人が天を見誤り、その理を間違って理解してしまうからに過ぎません。正しく見定め、その理を理解すれば、これこの通り」
春海が新たに数値を記したばかりの帳簿を、紙片でひらりと撫で、
「天地明察でございます」
216ページ、鍵括弧部はどちらも伊藤重孝
春海が目指す方向性を決めた箇所から引用しています。人の歴史上で理を間違って理解することがよくあり、その度に矛盾がでて修正を余儀なくされています。
この作品はより現実に近い理を見つける難しさと新しい理を世に伝える難しさを教えてくれました。
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